徒然なるままに 11年10月16日

本日のサイクリング(二ヶ領用水)

久地円筒分水 電動アシスト自転車を購入以来、ちょっと遠くまでサイクリングに行こうと思っている。
 ジョギングやウォーキングは自分の体力と距離的に行ける先が限られることを考えると長続きしそうがないので、サイクリングで少しでも有酸素運動を使用との考えからだ。
 前にも記したとおり家は丘陵部にありちょっと行くとすぐにup・downとなるので普通の自転車では上り坂が辛い。電動アシストになったのでそこはカバーされる。距離を伸ばして運動量を確保使用という作戦だ。
 また、写真が趣味でもあるのでカメラもカゴに放り込んで、途中や行った先で気になるものを撮影すると言うことも行いやすい。
 電動アシスト自転車でのサイクリングは、結構自分に合っているのではないかと思っている。

 今日は、子ども時代から馴染んでいる「二ヶ領用水」を「久地円筒分水」まで下ることにした。
 「二ヶ領用水」は、1597年(慶長2年)に測量が始まり、1611年に完成。1629年にはのぼりとよりの取水も開始した。
 現在の川崎市内の稲毛領と川崎領の二ヶ領の農業用水として開削された用水であるために、「二ヶ領用水」と呼ばれている。

久地円筒分水

 農業用水であるため、旱魃時には水を求めて大小さまざまな水騒動が、二ヶ領用水でも起こっている。
 1821年(文政4年)には、溝口水騒動と呼ばれる騒動が起き、特に水が不足をしていた川崎領へ水が流れるように御普請役人と約束が結ばれた。しかし、流れてくるはずの刻限になっても一向に水が流れてこないので調べてみると、中流でせき止めて川崎掘へ水が流れないようにしていることが分かった。これを知った人々は行った名主宅などを打ち壊し、不在であった名主を江戸の御用屋敷まで追いかけていくという大きな騒ぎとなった。
 当時の幕府は、騒動に参加した農民、関係の名主・年寄りを処分し、監督責任を果たせなかった下役人も処罰されるということになった。

 1941年(昭和16年)には、今までの久地分量樋に替わり、久地円筒分水が建造され、各水路下流の灌漑面積に応じた一定の比率(7.415 : 38.471 : 2.702 : 1.675)で水を正確に分け流すことができるようになった。
 この円筒分水は、国の登録有形文化財に指定されている。

仕組み

 久地円筒分水は、二ヶ領用水と新平瀬川が交差した直後の位置に作られている。これは、新平瀬川が溝口の洪水被害を緩和することを目的として流路変更されたために交差が生じたものである。
 交差をするために、二ヶ領用水側に水門を設け、新平瀬川の下を地下水路で渡っている。
 円筒分水で越流に必要な高さまでせき止め、伏せ越しした先では、そのまま円筒分水中央の湧出口に繋がっている。川を越すための伏せ越しを利用して、久地円筒分水は造られているようである。
 なお、新平瀬川は、円筒分水への余剰水排水にも使われている。

 湧出口から流れ出した水は、その周りを囲むように同じ高さで作られた越流堤からさらに外側の分水のための堤に囲われた水路へと流れ出る。
 この水路部分を区切る仕切り壁の間隔(比率)により正確に用水の分水量が決定される。分水比率が、誰もが円筒分水を見ると一目瞭然で分かるため、この後に築造・改修された分水施設でも多く採用されている。

 二ヶ領用水や久地円筒分水の周辺には、桜の木が多く植えられており、春先には桜を見ながらの散策をすることが出来ます。

久地円筒分水(断面図)

参考

 従来の分水樋は、流れの中央部が周辺部より速いと言うこともあり、1:2で2分岐した場合、分水比率は1:2よりは、0.7:2.3のようになってしまい、流量が多いほうに有利になってしまいます。
 3分岐した場合には、1:1:1の場合、0.75:1.5:0.75のような比となり中央部が有利となります。
 このようなことがあることから、公平に水を分水するための工夫が必要となるのだそうです。


最終更新日:2012/01/07 12:06:16 作成者:高橋 秀雄 hd5h−tkhs @ asahi−net.or.jp
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